▼昭和7年の焼失後に建った子孫の家と、その子孫の眠る墓

山家史誌を読んでいたら、円山応挙の妻が橋上町出身と記されている。もしかしたら屋敷跡でもあるかもと思い、早速当てずっぽうに友人に電話をしてみた。応挙も知らないし、そんな話知らないとのつれない返事。日本画の大家だと説明し電話を切った。しばらくして、〝リーン、リーン〟〝あった、あった私の家や!〟位牌があるとの事。びっくりして、家を飛び出した。行く道中、この道も在りし日、応挙が歩いたかも知れないと、ドキドキしながら教えてもらった道を進んで行った。
円山応挙について享保18年(1733)5月1日、桑田郡穴太(あのう)村<現亀岡市>に生まれ、幼名を与吉のち岩二郎、34歳頃応挙と改めた。貧しい農家に生まれ、村の寺に預けられた後、京都に上り呉服屋、道具商に勤め画家を志した。屏風や襖絵を描き、近代の日本画に大きな影響を与えた人物である。現存する作品は多くあるが、寺院に残る晩年の作品は、現代に於いても尚高く評価されるものがある。63歳の生涯を終えた。画家を志した頃、妻帯して独立した。妻女は名不詳であるがこの時代の系統書に女性を入れないのが通例の為記録がない。この女性が橋上町の木下家出であるのは間違いなく、霊標にある初代の政右衛門と本分家の関係にある半兵衛の息女と思われる。(香住、応挙寺談)今もって木下家では法要を司る。なお応挙の次男、応受は橋上町へ戻って母方の木下家を継いだが早世したとある。(山家史誌、ブリタニカ大百科事典より)史誌から得た知識とは言え、宝物を大発見した様な気分だった。
▼生家に行く途中の五郎橋

この五郎橋を渡り桜並木に沿って左へ100m程行くと、昭和7年に焼失後建てられた応挙の妻の子孫の家や屋敷跡及び墓がみられる。
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