▼こよなく愛したアトリエ(則神居) ▼作品 「山家村」

明治29年、何鹿郡志賀郷村(篠田町)の豪家に生まれ、その後38年に山家に移り住む。19歳の時、写生旅行で山家を訪れた鹿子木孟郎(かなこぎたけしろう)画伯に見出され師範学校を中退し、苦労をしながら門下生となりひたすらデッサンに努める。40歳渡仏、パリを中心に創作活動中にパリ画壇の気鋭であったジャコメッティに才能を認められ、ピカソ、マチス等巨匠が会員だった美術サロンの一員となり日本人初の画を納めた。帰国後はあらゆる画壇や団体の誘いを断り続け、山家の自然にこもって比類のない画作を続け昭和58年、87歳で永眠したとある。(山家史誌より一部抜粋)
▼頻繁に訪ねてきた友人達のサイン(一部)

長男、有道大作さん(69歳)に、在りし日の父
有道佐一氏について語ってもらった。4歳の頃、書生4人とお手伝いさん3人が一緒に生活していた時、父でありながら家族だけで食事をした覚えはなく、思想的な話が好きでその話を聞きたい人や、有道佐一を崇拝するあまり、100%画に没頭してもらいたいと世話をしにきた人等、毎日20人~30人(中には意味もなくついて来る者)が家に来て、一緒に食事をしたそうです。又毎日朝4時頃から夜中の12時頃まで、画を求めて来る客の応対でなかなか絵筆を取れなかった時期もあったそうです。タバコが好きで毎日ゴールデンバットを300本程吸っていたが、決して画室では吸わなかった事。相撲や野球など趣味が多く、魚釣りは親子でよく行った事、カルタは趣味の域を出、京都や東京の大会にも出ていたそうです。ある時、知り合いが家宝にするからと何回も頼むので描いた画だったが〝安もんの家宝じゃな~、大根の1本もこん〟そんなエピソードの一部も話されました。又人脈も豊富で、あらゆる著名人が話をしに訪ねて来られたそうです。一時は画壇のトップを争う名声がありながら、それを一切絶ち唯一自分の画を描きたい、生きている間に描きたいと、寸暇を惜しんで没頭されたそうです。その生涯に亘って描かれた沢山の作品が、現在大作さんの自宅に残されています。
▼海軍の教官から贈られたドイツ製の柱時計、〝今も時を告げる〟
大作さんの最大の悩みは・・・・・油絵の痛みが激しく、好きであった書物と画を、新しく自宅に建てた蔵に保管されていますが、現在特別な保管もされていないそうです。綾部の宝である、名画の保存対策が早く出来ないかと願うものです。大作さんの話を聞いていると、幼い頃の思い出話が溢れ出し、私も自然にその中に溶け込む事が出来、同じ時間を持てたことが嬉しかったです。有道画伯の画は、ホテル綾部のギャラリーで常設されています。是非、趣のあるホテル綾部にお泊り頂き、古里綾部の名作を心ゆくまで鑑賞してください。ホテル綾部のホームページは→
ここ各紙の紹介→①
ここ →②
ここ